先月に続き、梶井基次郎です。基次郎には「器楽的幻覚」という小文があります。これは昭和の初めに発表されたもので、フランスから来た洋琴家 (ピアニスト)の演奏会に出たときの感想を綴ったものです。そこで基次郎は、演奏者に魅了され、操られていく聴衆を見出してしまって、怖気を感じます。「なんという不思議だろうこの石化は?今なら、あの白い手がたとえあの上で殺人を演じても、誰一人叫び出そうとはしないだろう」。
しかしそれなら、基次郎は自己に戦慄せねばならぬはずです。なぜなら作家もまた、その筆によって読者を手繰り寄せ、その心の中を操る存在だからです。その戦慄に皮肉を感じず、神経を痛めるのは、基次郎に良心が残っているからでしょう。そしてその良心を、笑えるようになった境地には、作家の世界が広がっていくのかもしれません。そのような境地を哄笑する作品として、私は、太宰治の「人間失格」を思い出します。あるいは、皮肉に自嘲するトーマス・マンの「マリオと魔術師」をです。